第一章 生きてる実感②

第一章 生きてる実感②

 いよいよ出発の朝がやってきた。出国をこの4月15日に決めた理由は特にない。ただ数日後にフィリピンのマニラへ飛ぶために韓国を経由し、ついでにシェアハウスメイトの友達に会ってこようと思った時にちょうど安いチケットが出てきたからだった。

 前日まで荷物の準備は何もしておらず、昨夜になって慌てて詰め込んではみたものの、母のおさがりである28ℓの登山用バックパックにはそもそも遠足に行くくらいの量しか入らない。と言っても忘れて困るようなものはハサミくらいしかなく、ハサミの他にカットクロス、電池式バリカン、歯ブラシと歯磨き粉、Tシャツ3枚、パンツ2枚、下着、靴下、それから100均のポーチや200円で買った財布、お客様に頂いた御守り10個、クレジットカード3枚、スマホとタブレット、そしてパスポートを入れた。世界一周するために必要なものがよくわからないため、とりあえず3日分生活ができるだけの用意をした。まあ何とかなるだろう。

 午前9時にケイティと一緒に日野駅を出た。仕事を休みにして空港までわざわざ送ってくれるのだという。日野駅からは中央線に乗り、新宿で山手線に乗り換え、日暮里を経由して成田国際空港までは3時間ほどかかる。3ヶ月間、毎朝毎朝座れもしない満員電車で苦痛しか感じなかった鮮やかなオレンジ色の電車ともこれでしばしお別れだ。少しもさみしくはない。むしろせいせいする。そして都会の喧騒ともお別れである。18歳で上京してから丸7年過ごした美しい都では、今日も慌ただしい1日が始まろうとしている。かつての同僚も、上司も今日もまた美容師として生きるのだ。僕はもう美容師ではない。住所不定無職、世界をまたにかける【旅人】だ。

 遅延することもなく第1ターミナルに到着し、チェックインカウンターに並んで手続きを済ませ、荷物を預ける。チケットには搭乗時間が記載されていて、添乗員が丸印をつけてくれた。しかし空港はにぎわっている。成田国際空港に来るのはすごく久しぶりで、1年半前にシンガポールとマレーシアを一人旅した時ぶりである。昼過ぎのフライトまではまだ時間に余裕があるため、保安検査場を通る前にどこかでお昼を食べることにした。「なに食べたい?」とケイティが聞いてきたが、どこのレストランも空港価格で高い。これから86万円のわずかな貯金とともに無期限世界一周の旅に行く僕にとってはなるべく切り詰めたいところだ。

「マックでいいよ。マックにしよう。」

 もしも一緒にいた人が日本人なら「そこ最後はカツ丼とかうどんとか日本食だろ!」と思わず言いたくなるのだろうが、流石にイギリス人、何も言わなかった。マックでセットを1つだけ頼んで2人でわける。ポテトを見つめながら「これから先が思いやられるな。」と正直思った。想像していた【世界旅行】というものは、もっと輝いていて派手なものだと思っていた。想像の中では出発はもっと晴れ晴れしい盛大なものになるはずだった。ところが硬い椅子に座りポテトをモシャモシャ食べている。なんというか、あまりに地味だ。渋谷でもできる。ただ、僕は貧乏していた時代が長かったゆえに貧乏性が全く抜けてなく、派手や贅沢というものがむしろ苦手だからこのくらいが自分らしくていいのかもしれない。

 ケイティと何かを話したほうがいいような気がするのだが、何を話したらいいのかわからなかった。別れの前って人は何を話すのだろう?正直ここに来てなお、まだ実感もわかないしなんだかいつもの1日がこのあと午後も夕方も続くような気がして。

「東南アジアに行くよ。行ってみたい。」

ケイティが口を開いた。

「本当?遊びに来てくれんの?」

「オフコース。夏に休みを取って行くよ。」

「夏か。どこにいるかな。東南アジアは3ヶ月だけの予定だから。急がないとイギリスに間に合わないしね。」

 世界一周のルートはほぼほぼ決めている。

 

シンガポール↓マレーシア↓タイ↓カンボジア↓ベトナム↓中国↓ラオス↓タイ北部↓ミャンマー↓インド

 

 5月末までフィリピンに滞在し、その後シンガポールへと飛び、3ヶ月で陸路でインドまで。まずはアジア諸国をめぐるという計画だ。思いつく限りで問題があるとしたら、タイ北部からミャンマーを超えてインド北東部に行けるのかどうか。そこは調べても情報がなく、タイとミャンマーの国境、それからミャンマーとインドの国境はジャングルらしい。無理かもしれないが地図を見る限りだとなんだか行けそうな気がしてくる。

 そしてその先は、インドを出て中東〝ヨルダン、イスラエル、トルコなど〟を巡り、エジプト、アフリカ諸国〝どんな国があるか調査不足のため未定〟を巡り、冬はイギリスへ。ロンドンからケイティの実家があるというウェールズに行き、クリスマスを過ごす。その後はヨーロッパ諸国を巡り、 2015年はアメリカ大陸、そして南米に行って帰ってくる。見事に1年間にまとまっている、素晴らしい計画性だ。

 いくつか必須で訪れたい場所もピックアップした。カンボジアのアンコールワット、インドのタージマハル、ヨルダンのペトラ遺跡、スペインのサグラダファミリア、エジプトのピラミッド、ペルーのマチュピチュ、そしてチリのイースター島のモアイ。そのどれもが雑誌やネットで見る度にワクワクする、文字通り夢にまで見た場所だった。だからそこだけは絶対に行くと決めたのだ。

 旅の計画について話していると、気が付いたら出国の時間が近づいてきた。マックを出て保安検査場へ向かう。検査場にはチケットを持っている人しか入れないため、ここがお別れの場所になる。

「Jun… I miss you…」

 検査場へ向かう通路の入り口でケイティが泣き出した。朝目が覚めても、チェックインカウンターでチケットを発行してもらっても、マックのポテトを食べても全く旅に出る実感がわかなかったが、ようやくここに来て「ああ、いよいよ本当にこれから行くのか。」と思った。そうなるとなんだか急に僕もさみしくなってきて、気がつけば頬を涙が流れていた。

「きっとまた会えるよ。電話するから。ここまで送ってくれてありがとう。」

 最後に一緒に写真を一枚撮ってから、検査場に進む。すぐに彼女の姿は見えなくなり、荷物チェックをする人の列に僕も組み込まれる。悲しんでる暇もなくポケットの荷物を出し、バックをカゴに入れ危険物チェックをする機械の中に押し込む。金属探知機のゲートを通り、一度外したアクセサリーをまたつけ直す。みのるの店長からもらったバングルは右手首につけることにした。まだ重さに慣れず、少し違和感が残る。

 搭乗時間まではまだしばらく時間があるが、何もすることがない。免税店で買いたいものもなく、ただウロウロしても仕方がないのでおとなしくただゲートの前で座って待つことにした。するとスマホにショートメッセージの通知が来た。なんだろうと開いてみると父から「健康に気を付けて世界を見聞して来い。」と一言。親の気持ちはわからないが、子が世界を放浪してストリートでヘアカットしてくるなどとわけのわからないことを言ってればそれは気が気ではないだろう。いくら25歳の大人とは言え、親からしたら子は子である。心配でないわけがない。その証拠に僕は人生で初めて父からメッセージをもらった。アナログすぎてメッセージを送るような人ではないが、かといって電話まではさすがに照れ臭かったのだろうなと少し笑ってしまった。

 同僚も上司もお客様も友達もシェアメイトも、そして彼女や家族も、多くの人が出発前にメッセージをくれた。そんなみんなに生存確認の意味も込めて旅の様子を伝えるため、InstagramやTwitterのアカウントを開設し、ブログも始めたのだ。ブログの名前は【旅人美容師の1000人ヘアカット世界一周の旅】と名付けた。ちなみにこの旅人美容師とは2010年に僕が作った造語だ。美容師を辞めて日本を放浪していた時に、そういう肩書を思いついた。ネットで調べても誰もいなかったことから、自らにつけてアメブロを始めたのだ。

 今思えば、僕のこの旅は今日ではなく2010年からすでに始まっていたように思う。決してただの思いつきで世界一周をしようと思ったわけでもなければストリートで髪を切ろうと思ったわけではない。あの日々がもしもなかったとしたら、僕は今搭乗ゲートの前にいないばかりか、美容師をやっていたかも定かではない。青山で美容師をやってなければ、挫折して美容師を辞めてなければ、日本放浪の旅をしてなければ、福島に東日本大震災のボランティアに行ってなければ…今の僕はなかった。確実にこういう考えには至ってなかった。

 搭乗ゲートが開き、飛行機に乗り込む。記念すべき第1ヵ国目の韓国・ソウルまでおよそ2時間である。わずかな飛行時間とはいえ機内では何もやることがないため、どうしようかと考えていた。飛行機が飛び立つ前にふと思い立って昔書いていたアメブロを読み返してみた。この世界一周の旅のきっかけになったあの頃の僕の記録。切っても切れない僕の歴史。鮮明に記憶がよみがえってくる。