第二章 旅烏の葛藤④

第二章 旅烏の葛藤④

「じゃ、首にタオル巻きますよ。」
「はい。お願いします。」
「どのくらい切ってないんですか?」
「1ヶ月前にフィリピンの床屋に行ってから切ってないんです。」

 カットクロスの隙間から細かい毛が入らないように首にタオルを巻く。通常美容室ではそのようにするのだが、毎日が日本の真夏のようなフィリピンの野外で、タオルも巻いてカットクロスも巻いて髪を切るのはちょっとかわいそうな気もする。しかし、やはり巻くことにした。

 今は語学学校に通っている状態で旅をしていると言えるかどうかは微妙だが、何にせよ記念すべき1人目である。実は3月末で退社してから出国するまでの2週間の間に、30名の髪を日本で切っていた。目標の1000人を達成できる気がしなかったため少しでも数を稼いでおこうと日和っていたのだ。実質的に彼が旅に出て1人目のヘアカットではあるが、実際は31人目ということになる。

 1000人の髪を切ったという証拠を一体どのように残すか、これについては写真を撮ってブログに載せるという方法を取ることにした。一応2年ほど前に買った一眼レフカメラもあるが、とりあえず今回はタブレットで撮影をすることに。撮影はビフォーアフターを撮ればいいかと最初は思っていたが、いざ切り始めるとなんだかそれも違う気がする。むしろビフォーアフターはどうでもいいのではないか、と。

 いわゆる、美容室で言うヘアスタイルを作ることが目的と言うより、髪を切ることでコミュニケーションを取ることが目的なのだ。撮るなら髪型の変化よりもその瞬間の方が良い、そう思ったのだ。ということであれば髪を切りながら自分で撮るわけにもいかないなと思い、周りをキョロキョロと見渡してみた。髪の毛が綺麗な真っピンクの韓国人の男の子が暇そうにしていたから声をかけた。

「ねえ、写真撮ってくれない?」
「髪切ってんの?いいよ!カメラ貸して。」

 数枚撮ってもらい、確認する。ハイチーズ、と撮るのもなんだかおかしい気がしてありのままの様子を撮ってもらった。むしろその瞬間の雰囲気を残したほうが自然体で良さそうだ。また撮影の構図もカメラを渡した人に委ねるのもおもしろいなと感じた。

 マネージャーが生徒からスタッフになった経緯、ダバオの夜の街事情、過去の生徒の面白話などを聞かせてもらいながら髪を切る。鏡がないこと、シャンプーが出来ないこと、電源が使えないことで不便ではあるが、こういう世間話をすることも含めて考えると美容室と何ら変わらないな、と思った。

 面白かった話が期間限定のカップルが出来るという話である。それぞれパートナーを母国に置いてきて1人で語学学校に入学してきた人が、学校に通っている1ヶ月とか2ヶ月とかの間だけというお約束でカップルになってしまうらしい。その後はどうなるかはしらないが、毎日顔をあわせて毎日一緒にご飯を食べて、週末は一緒に遊びに行ってればそうもなりそうなものだよな、と思った。日本人より韓国人の方がその傾向は強いらしいが、どの国の人でも関係ないだろう。中にはフィリピン人の先生と結婚する人なんかもいたという。

 ふと日本にいるケイティのことが頭をよぎる。今日は何をしているのだろうか。何をしているのかといえばいつものように仕事をして、終わってから立ち飲み屋にでも行っているのだろうが、思えば僕たちもまさにそのような状況にいるわけである。素敵な人が現れたらそれで終わるかもしれないが、そんな事を考えても仕方がない、とカットに集中することにした。

「俺も髪の毛切ってほしいなぁ」

 写真を撮ってくれていた韓国人の男の子がそう言った。気がつけば周りには生徒とフィリピン人の先生の見物人もできている。20人はいるだろうか。学校で人の髪を切るような人が過去にいたかどうかはわからないが、珍しいらしくキャッキャとはしゃぎながら写真を撮っている先生もいる。こういう理解しがたい瞬間に立ち会った時に眉間にシワが寄るでもなく、むしろ笑いがあふれるのはフィリピンの国民性なのかもしれないが、とても良いものだなと思った。

 韓国人の男の子のピンクの髪を切っていると、また別の生徒が「切ってほしい」と言ってきた。これは非常に大きな発見である。誰かを切り始めるとギャラリーが増え、その様子を見ていた人がヘアカットを頼んでくれる。ビラなんかを配るよりとても話が早い。それに語学学校という性質上、なかなか髪を切りたくても切れない人がいるらしい。1ヶ月、2ヶ月とフィリピンにいればそれはそうだなと思った。ダバオには日系美容室もなさそうだし、語学学校に張り付いていればいずれ1000人切れるだろう。これは大きな発見だ。

 その後も毎日のように同じ要領で日本人の生徒、韓国人の生徒、フィリピン人の先生のヘアカットを続けた。【いつも庭でヘアカットしてる奴】という肩書も手に入れることができた。面白いことにヘアカットをきっかけに話した人や、声をかけてくれた人は僕のことを「デイビット」と呼ばなくなったのだ。なぜかいつの間にか僕は「美容師のジュン」と呼ばれるようになっていた。

 

 金曜日と土曜日はわりと自由に外出することが出来た。みんな飲みに行ったり好きに過ごしている。僕はHYBRIDというローカルのクラブでフィリピン人の20歳の大学生と待ち合わせをしていた。先週学校の友達と一緒に来た時に仲良くなったのだ。

「また来週ここで会おうよ!」

 先週そう言って別れた彼とはFacebookの友達にもなったため、メッセージのやり取りをして直接現地で集合したのだ。おそらく語学学校に来て1人でローカルクラブに行く人はそうそういない。だからこそあえて1人で来てみたのだ。僕は旅がしたくて日本を出たということもあり、語学学校での毎日が少し物足りなくなっていた。安心安全のセキュリティ、お湯が出てくるシャワー、清潔な食堂で食べるご飯。みんなと話したりするのは楽しいし、髪も切らせてもらえるが、なんというかフィリピンに来た感じが全くしなかった。

 つるむのが日本人と韓国人だけなのであれば、フィリピンがどういうところなのか、フィリピン人がどういう人達なのかを知ることが出来ない。それでは来た意味がないし、何か行動を起こさなければと思いタクシーに乗って来てみたのだった。

 マニラやセブのクラブ事情はさっぱりわからないが、ダバオのローカルクラブはとてつもなく安いらしい。入場料が100ペソ、ビールが1本50ペソである。日本円にしておよそ200円と100円だ。クラブは渋谷でたまに行っていたが、渋谷の場合は入場がタダでも飲み代は高い。ビール一杯飲んでも500円から700円はすることを考えるとHYBRIDは破格である。

 大学生と合流し、中はうるさいからとビールだけ買って外のベンチで飲みながら話し始めた。中の音楽が少しだけ漏れていてBGMのように聞こえてくる。この外で飲むというシステムも日本のクラブにはまずないだろうから、ローカルな感じがしてとても良い。彼は身なりも立ち振舞もとてもスマートだった。英語もペラペラだし、大学に行ってることも考えると、おそらくそこそこ良い家の出ではないかと思う。日本にいるとあまり格差というものは気にならないが、フィリピンにいるとそういったものは当たり前に目に付く。同じ国に生まれ、同じ年齢であっても生活環境は全く違う。子供である以上親の影響が大きいのは日本も変わらないが、ある程度の教育や生活が国として保証されている日本はやはりすごい国なのだなと実感する。

 彼と話していると、語学学校の生徒が数名やってきた。週末といっても行くところもなく暇だったらしい。HYBRIDはおそらく語学学校E&Gの御用達なのだろう。彼らとも混ざってみんな一緒に中へ入ることにした。中ではぎゅうぎゅう詰めほどの人がいるわけではなく、程よい人数だ。ピンクや紫のライトに照らされて若者たちが踊っているのが見える。流れているのはフィリピンの曲ではなく、世界的にもメジャーな洋楽で、うるさすぎず落ち着きすぎずなかなか良い雰囲気である。日本人と韓国人はやはり浮いて見えるが、フィリピン人たちはあまり気にもとめてないようだ。

 合流した生徒のグループの中に色白で少年のような見た目の韓国人の男の子がいた。彼はとてもシャイであまりクラブに行くような感じではなかったから、この場所でビールを飲んでいる姿が少し意外だった。しばらくみんなで飲んだり話したりした後、各々好きに過ごす流れになった。疲れて1人でビールをチビチビと飲んでいだ僕は、同じように1人でビールを飲んでいるシャイな韓国人を遠目に見ていた。すると、フィリピン人の女の子が彼に声をかけている。逆ナンをされたようで、終始しかめっ面だった顔がついつい緩んで笑みがこぼれている。

 フィリピンでは韓国人は非常にモテるのだ。K-POPアイドルの影響で、韓国人そのものがブランド化されているらしい。日本人はと言うとそこまでではないが、それでもモテるらしい。理由としてはフィリピン人男性より背が高いことと、色が白いからだという。日本人の背が高いと言うより、フィリピン人の背が比較的低いのだろう。毎日外で髪を切っているため、日に焼けて全く白くは見えない僕は、なんとなく韓国人の彼が羨ましく思えた。

 僕は日本に彼女がいるし浮気をするとかではないにしろ、単純にフィリピン人の女性とクラブで話したりするのは楽しそうである。せっかく来たのだから、的な考えが頭をよぎらないわけではない。ふと右腕に触れられた感覚があった。振り向いてみると背が小さくて髪が長いフィリピン人の女性がそこにいた。

「1人?一緒に踊らない?」

 驚いた。こんなセリフは映画か漫画でしか見たことがなかった。少なくとも僕は生まれてこの方ただの一度も言ったことも言われたこともない。シャル・ウィ・ダンスである。断るのも悪いような気がしたし、まさに今「羨ましいなぁ」などと思っていた所だ。踊るくらいいいか、と「オッケー」と言った。ふと待ち合わせをした大学生の男の子は何してるだろうと見てみると、日本人の語学学校グループと一緒にいる所が見えた。

 踊ると言っても、どうして良いかわからない。ただ50ペソの瓶ビールを手に音に合わせてゆらゆら揺れているだけである。彼女は黙ってそれに合わせるように動いている。

「どこから来たの?日本人?」
「そうだよ!東京から!」

 話せないほどうるさいわけではないが、声を張って答えた。

「踊り方がよくわかんないから話そうよ」と言って彼女を外に連れ出した。本当は大声を出すのが嫌だったというだけだが、どうせなら彼女といろいろ話してみたいと思ったからだった。50ペソのビールを追加で頼み、それを持って外に出た。しばらく中にいたからか、外は空気がとても澄んでいるなと感じる。

「今大学生?このクラブにはよく来るの?」
「そう、今大学生なの。ここにはよく来るよ。」
「そうなんだ。僕は英語を勉強するために1ヶ月だけダバオに来ているんだ。」

 歳は少し下らしかった。英語も話せるし、彼女もまたある程度裕福な家庭で育ったのだろうか、なんだかとても品がある感じがした。時間を忘れて他愛もない話をしていると、語学学校のみんなが外に出てきた。

「ジュンさん、もうすぐ門限だよ。そろそろ出ないと。タクシーも捕まえたよ。」

 もうそんな時間か、と彼女の方を振り返る。

「来週も来るけどあなたも来ない?」
「来週ね。考えておくよ。楽しかったよ、ありがとう。」
「そう。じゃまた会いましょう。」

 彼女は毎週のように韓国人や日本人の男との出会いを求めてHYBRIDに来ているのだろうか。僕を誘って来た真意が遊びだったのか何だったのかはわからないが、なんだか語学留学に来て現地のフィリピン人女性とカップルになる人がいるというのも頷ける。こんな事が続けばそのうち本気になってしまう人もいると思う。相手が英語が話せる人ならば、授業よりもはるかに効率的な英語学習になるのだろう。帰りのタクシーの中でぼんやりとそんな事を考えていた。