第一章 生きてる実感⑥

第一章 生きてる実感⑥

 薄磯海岸で、破壊された防波堤の上に立ってみた。眼の前には穏やかな海が広がる。静かな波の音、暖かい日差し、本来ならそれは美しいものとして認識するはずなのだが、こんなに穏やかな海がある日急に脅威に変わり襲い来るるのかと思うと純粋な恐怖を感じた。そんな海を眺めながら思った。

「生きるってなんだろう」
「死ぬってなんだろう」

 それまでの僕は【死】というものは病気や事故、事件、または自殺で起こりうるものだとばかり思っていた。しかしこうもあっさりと災害で人は亡くなってしまうのだ。生きたいとか、そういう感情は一切無視されるし、若いからとか子供だからとか結婚を控えているとか、そんな事は考慮されない。そこには人の意志よりはるかに大きい自然の摂理というものがあることを知った。

 人に感情がある以上、ハイそうですか残念でしたね、とはならない。大切なものを失ってしまえば悲しいし、辛いし、苦しい。だけど贖えない。抵抗できない。どうしようもないのだ。そういう世界で生きているのだと実感した僕は【生きる】ということについてもっと真剣に考えようと思った。なにが正解かはわからないが、正解だと思うものは探していきたい。少なくとも、やりたいと思うことはやりたい。やろう、と。

 それはやはり美容師であったし、旅でもあった。もっと多くの事を知りたいし、見てみたい。世界が広いということを実感したい。もしも明日急に死んでしまうことがあったとしたら、今の僕のままなら絶対に後悔すると思ったのだ。だからいつか必ずやってくるその瞬間までは、やりたいことをやって生きてみようと。ある種の誓いのようなものを立てたのだった。

 最終日にはいわきが地元だという人と同じグループになり、作業をする中で仲良くなった。東京に戻りしばらくするとその人から連絡が来て、下北沢で昼から飲みに行くことになり「ボランティアに来てくれた恩返し」とビールをご馳走になった。僕は僕のために旅をし、僕のために握手をしてもらい、出会った人に恩返しをしたいという想いはあれど僕のためにボランティアに行った。仕事もやめなければ、旅にもボランティアにも行かなければ、自分が自分でいられないような、自分の心にも従えずにただ下を向いて生きるようなそんな人生になっていたような気がする。自分を変えたくてやったことが、恩の連鎖を生む。ありがとうと言われたことが素直に嬉しかった。

 人の繋がりとはそうやって生まれていくのだな、と思った。正しい、間違っているというだけの判断基準ではなく、理屈でもなく、とても感情的なものなのだ。多くの人からの恩だけで生きていく事は実際は難しく、してもらったら返そうという気持ちが芽生えてくる。そういった時に損得を超えた行動が生まれ、これまでにない新たな物語が作られていくのだろうと思う。

 その後しばらくはフリーターを続けた。日雇い派遣の仕事は辞めて上野の居酒屋でアルバイトを始めた。そこで大人になって初めて美容師以外の固定職についたわけだが、違う職もそれはそれでとても楽しく有意義なものだった。その年の秋に先輩の紹介で都内の美容室に再就職をした。美容師として1人前になることを目指し、技術を磨く日々を過ごした。

 世界一周の旅に出るまでは休みが少ないながらも連休の度に国内あちこち旅をし、夢だった【47都道府県制覇】をすることも出来た。その旅の中でもいろんな人に出会ってきたし、様々な気づきがあった。あの時仙台で出会ったタカシさんとジョージさんが「日本は良いぞ。自分の目で見てこい。」と言った意味をようやく理解したのであった。

 また、震災のボランティアにもいわき出身の友達ができたことにより、継続的に何度か行った。ある時宮城県の仙台、石巻、南三陸町、気仙沼にもボランティアがてら訪れた。震災発生からすでに2年半が経っており、瓦礫などは撤去されていたが、不自然な広場がたくさんあった。そこに何があったかはわからないのだが、何かがあったことはわかる。基礎を解体し、更地にしたのだろう。

 気仙沼の唐桑という地区に行った時の衝撃は忘れられない。それは高台にある石碑の所に花壇を作るというボランティアだった。何の石碑だろう?と思っていたところ、ボランティアのリーダーが説明してくれた。

「あそこに海が見えるでしょう」

高台からはるか下に確かに海岸が見えた。

「あそこからここまで津波が来たんです。ここは高さ15mの場所にあって、避難所がありました。昔からこの地は津波が来ていたところだったから、昔の人がここまで逃げたら安全だと思っていたようです。」

「なのでこの集落の人たちはここに逃げてきたんですが、ここに18mの津波が来ました。みんな流されてしまったんです。」

 遠くに見える海からはそんな想像は全く出来ず、絶句した。石碑には集落が全滅してしまったことと「逃げろ!」の文字が刻まれている。

「作業の前に黙祷を捧げます」

リーダーがそう言い、みんなで目を閉じた。

 震災からそこまで日が経っていなかったいわきでもかなりの衝撃を受けたが、宮城県各地でもその自然の脅威は刺さるように感じた一方で、やはり後悔しないように、今しかできないことを一生懸命やって生きたい、と再認識した場所であった。

 

 2012年の夏休みにはシンガポール・マレーシアに1人で行った。就職した美容室では最大1週間の休みを取ることができた。その時点では将来的に海外に行きたいとは思っていたが、まだ旅なのかどこかの国で働くのか何をすべきかは漠然としていて、悩んでいた。そこで海外で働く日本人の美容師に話を聞いてこようと思ったのだ。

 日本で言う表参道のようなエリアであるオーチャードにバックパック姿で立ち、道行く人に声をかけてみた。と言っても英語は話せないため、日本人らしき通行人をまずは探したのだが、思いのほかすぐに見つかった。ベビーカーを押す、どうみても日本人の女性が歩いてきたのだ。「すいません、このあたりで有名な美容室はありますか?」との急な僕の質問に快くある美容室の名前を教えてくれた。

 あそこだよ、と教えてもらったビルの中に入り、店を見つけたものの受付のシンガポール人になんと言えばいいかわからず「…あの…ジャパニーズ…えーと…」と戸惑っていると、何かを察したのか「オーケー」とちょっと待っていろという素振りを見せた。しばらくすると奥から一人の日本人女性が出てきた。

「あ、あの!すいません、予約してないのですが。髪を切ってもらえますか?」

「ああ、はい。大丈夫ですよ。ちょっとお待ち下さいね。」

 しばらくして席に通してもらい、そこに来た経緯を話した。すると「今日たまたまオーナーが来てるんですよ。会ってみますか?」と言ってくれ、話を聞くことが出来た。

 日本人のそのオーナーはイギリスの専門学生に行ったり、ニューヨークでホームレスをしたり、沖縄でバーをやったり、その収益を持ってカナダへ行って美容室をやったり、シンガポールでマンションを買って売ってその資金でオーチャードにお店を出したりと、破天荒の極みみたいな人だった。正直痺れた。

 漠然とした海外に行って美容師をやりたいという夢について否定されるわけでもなく、具体的にアドバイスもしてくれた。

「日本人が海外で美容師をやっても、英語が話せないと日本人のお客さんだけを相手にすることになるでしょ。日系のお店が増えたりすると、そこと取り合いになる。それだといつか潰れちゃうよ。」

「だから英語を話せるようにならないと。英語ができればシンガポール人も欧米人も相手にできるよ。まず英語の勉強からだね。」

 ものすごく正しいアドバイスで、そんな事も気付けなかった自分が恥ずかしくなった。シンガポールに行ってみてハローとサンキューとソーリーくらいしか話せない自分の英語力にも愕然としたが、わかりやすい目標が出来たことはとてもよかったし前向きになれた。海外進出の夢がより鮮明になった気がしたのだ。

 帰国後には英語を学ぶために外国人がいるシェアハウスに引っ越した。そして出来ないながらも英語に触れる生活を始め、日本に興味があったり日本に住んでいる外国人が日本人の友達を探すWEBサイトからメル友を見つけたりもした。それらの行動の結果ケイティに出会い、簡単な日常会話くらいなら話せるようになっていったのだ。

 あくまで旅人、だけどあくまで美容師として【旅人美容師】と名乗り始めた2010年からの激動の人生。僕の中では毎年毎日人生が大きく変化していった実感がある。新しい街に行く度に、新しい人と出会う度に、自分の世界が広がっていく気がした。そしてさらに遠くへ、さらに未知へと足を踏み入れてみたくなり、世界一周をすることと1000人ヘアカットをすることを決めたのだった。

 機内で昔のブログを読み、様々な記憶とその時の感情がこみ上げてきた。野宿をしたり、寒かったり、派遣のバイトで怒られたり、ご飯が食べられなかったり、それなりに辛い日もあったなとは思うのだが、意外とそういう経験は後になってみれば笑えるものだ。それよりも人から受けた恩、美しい文化や町並み、壮大な自然と景色、それらを経験出来たことが本当に良かったことだと思えた。

 あの頃出会った多くの人に直接恩返しは出来なくとも、旅人美容師としてヘアスタイルという形でこれから出会ういろんな人に”ギブ”をしていきたい。数々の思い出とこれから始まる旅のワクワクを胸に、そっとスマホを閉じた。あとわずかでこの飛行機は韓国へ向けて飛び立つというアナウンスが流れている。

 僕がこの旅で1000人の髪を切りたいと思う理由は挫折があったからで、握手の旅があったからで、震災があったからである。その中での多くの人との出会いが、これから先の新たな誰かとの出会いを作る原動力になっている。この歴史は、僕が僕の人生を進めていくための大切な要素なのだ。思い出と、そして感謝の気持ちとともに、今日これから新たな旅に僕は出るのである。