プロローグ
「ごめんね。私好きな人がいるから。ジュンくんとは付き合えない。」
少し明かりがあるだけの深夜の港でユキちゃんが申し訳無さそうにそう言った。野生のペリカンが目の前で海を見ている。僕は頭の中でその言葉を理解しようと必死だった。27年間生きてきて、初めてちゃんと女性にフラレた。これまで百戦錬磨というわけでは決してないが、こうもハッキリとフラレた経験がなく、こういう時どうすべきか答えを持ち合わせていなかった。
「好きな奴って誰だよ?」「そうか、その人とお幸せにね」「嫌だ!考え直してほしい!」「俺にはユキちゃんしかいない!」
どんな顔をすればいいのか、なんて言えばいいのかもわからず、また思いつくどれもが不正解な気がして、結局「うん。わかった。」とだけ素っ気なく返事をした。それが大人の対応のような気がしたから。この後に及んでまだカッコつけようとしている。
決して負け惜しみではないが、なんだかフラレるような気はしていたのだ。いや、むしろ確信に近いものがあった。根拠のない勘によるものである。ある程度生きているとなんとなく空気感でわかるような事はある。大人とはそういうものだ。そう、空気を読むというやつだ。いわばこれまではそうやって察してきて博打をうたなかったからフラレたことがなかっただけかもしれない。負ける勝負をして負けただけ。
なぜそれでも告白したのかと言えば、どうしても告白しなければならない理由があったからだ。どう転んでも気持ちを伝えないことにはこの旅を先に進めることができなかった。「もしダメならダメで次に行ける。」そうも思っていた。
ユキちゃんは僕の2つ上で関西の出身だ。双子の姉妹で世界一周の旅をしている。チリの首都サンティアゴの路地裏にあるタレスという日本人御用達の安宿で彼女たちと出会ったのは遡ること3ヶ月前、4月の末のことだった。若干ヤンキー感が抜けてなく、ちょっとやんちゃな雰囲気と酒好きな所が合ったのかもしれない。出会ってすぐに宿で飲んで仲良くなり、毎晩ワインを飲んだくれていた。
【世界一周しながらストリートで出会った1000人の髪を切る】という変わった旅をしている美容師の僕は、この6月に記念すべき1000人目としてユキちゃんの髪を切った。ペルーの世界遺産の街クスコでのことだった。日本を飛び出してから1年と2ヶ月、とても長い旅だった。
僕は前々から「1000人目の人と結婚したらロマンチックじゃないか?」などと考えていて、自分の旅の終わりが近づくにつれ一体誰を切るべきなのか悩むようになった。いっそその辺の子供にしておくか、それともその辺のオヤジの髪を切って乾杯するのも乙かもしれないなどと考えたりもするのだが、ロマンチストな僕はどうもそれが許せなかった。それに面白くもない。世界の誰もこれまでやったことがない1000人ストリートヘアカットの締めくくりが南米の陽気なオヤジとは、むさくるしいにもほどがある。
いろいろと考えている中で、やはり家族などの大切な人がいいなと思ったのだ。その方がしっくり来る。これは僕の旅だ、僕がそう思うならそれしか無いだろう。しかし婚約者どころか彼女さえいないのだ。850人カットし、900人カットしたころにはだんだん切実な問題になっていった。
「彼女を作らなければ!」なんて考えてみても、それは難しい問題だった。これまでの旅でもロマンスがなかったわけではない。フランスで仲良くなった日本人留学生とも、ポルトガルで恋に落ちたスロバキア人のナターリアとも、チリ人の大学生の子とも【次の町へ行かなければならない】という旅人の運命には逆らえず見事に破綻していった。「来世でまた会おう」とお別れの日に空港で涙の約束をしたナターリアは今もどこかで元気にしているだろうか。
チリのサンティアゴをあとにし、アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルと旅を続ける中で、日に日にユキちゃんが頭に浮かんでくるようになった。あの気だるそうにタバコを吸いながら話す姿にすでに惚れていた事に気がついた。だが僕らは旅人である。いつ、どこで、なにをしているか。予定は未定なのだ。明日の予定もわからないのに約束して会えるわけもない。ましてや【1000人ヘアカット】などと言うことをやっていればいつが1000人目を切る日なのか指定できるわけでもない。
恋はタイミングとハプニングとフィーリングだと言うが、奇しくもその三拍子がそろってしまう出来事があった。僕たちを再度引き合わせてくれたのはインティライミというペルーのクスコで行われる大きなお祭りだった。「inti」は太陽、「raymi」は祭りという意味の、今は亡きインカ帝国の言葉である。つまりインティライミとはインカ帝国時代に行われていた豊作と収穫に感謝するお祭なのだ。華やかな衣装を身に纏い、人々が列をなして踊りを踊る。歌い踊ることで太陽に感謝を捧げることになるらしい、なんとも南米っぽいお祭りだ。そのお祭りに参加するということで、ユキちゃんともそこで再会することになった。しかも990人髪を切ったところで僕はクスコにたどり着き、まさにその三拍子が揃ってしまったのだ。
「ユキちゃん、1000人目として髪を切らせてくれない?」
世界中のストリートでヘアカットをしてきた僕にはいくつかの流儀があった。その一つが【声をかけない】というものである。つまりあちらから切ってほしいといわれるのを待った。その流儀に反して唯一僕から声をかけたのがユキちゃんだった。
「え…髪は切りたいけど…なんか荷が重いなぁ。なんか1000人目と結婚するとか言ってなかった?」
あまり嬉しそうというわけでもなく、むしろすこぶる微妙そうな反応をしている。それもそうだろう。僕にとっては重要なセレモニー感もあるが、彼女からしたら意味不明な活動をしているわけのわからない美容師の勝手な節目らしき事でしかない。少なくとも前のめりに飛びついてはこなかった。
「そこをなんとか!結婚とか冗談だからさ!」
説得するのもおかしな話なのだが、そうでも言わないとすんなりオッケーしてくれそうもなかった。勝手に自分の中で運命の人にしてしまったユキちゃんに断られてしまったらこのモンモンとした気持ちはどうすればいいのだ?と思っていたし、このままだと本当にお祭りで浮かれたオヤジが記念の人になってしまう。最終的に了承してくれてホッとした。
そして公園で記念すべき1000人目として髪を切らせてもらい、僕の旅の目標は晴れて達成された。長かった。とても長かった。辛いこともたくさんあった。毎日ブログを書いていた僕は1000人目をカットした翌日旅のまとめの記事を作成しこれまで訪れた町の写真や出会った人の写真を見返してみた。蘇ってくる様々な思い出に自然と涙が溢れた。
世界で1000人の髪の毛を切るなんて、およそ正気の人間がやることではない。しかし僕はそれを大真面目にやり遂げた。その実感とともに頭の中は【1000人目と結婚】の文字に支配されていった。しかしその日すぐに告白したわけではなかった。心の準備が出来なかったし、情けないがいける気がしなかった。そしてもう1つ【旅の終わり】で悩んでいたという理由もあった。
1000人の髪を切るという目標は達成し、世界一周をするという目標はほとんど達成された。日本を出て西へ西へと進み、南米大陸にいる今、このまま飛行機で太平洋を渡れば晴れて世界一周達成だ。もうどう考えても帰り道なのだが、しかしどうも1000人を切ったところでピタッと終わる気にもなれず、さらにアメリカやキューバなど行ってみたい国もまだあった。それに僕はハッピーエンドを探していたのだ。行きたいところをもう少しめぐってからユキちゃんと結ばれればベスト。それで終わりにして日本に帰ろう。あざとくそう考えていた。
ただいかんせん雰囲気が怪しい。ユキちゃんに告白しても玉砕する可能性が高そうだ。27年生きて培ってきた勘が「やめといたら?」と、そう言っている。あまり慎重派ではない僕が慎重にならざるを得なかった。せいては事を仕損じる。まだ時間はある。そうしてモタモタしている内に一度ユキちゃんとは別れることになったのだが、また再会のタイミングが生まれた。ガラパゴス諸島である。
「ジュンくんもガラパゴス諸島行く?一緒に行こうよ」インティライミの祭りが終わり、もうペルーには用事がなくなった。クスコも、マチュピチュとその麓の村アグアスカリエンテスも、国境の町タクナにも行った。しいて言うならナスカの地上絵は見てみたい。だが空から見るために1万円かかることと、そこまで行くことがめんどくさかったから諦めた。リマを経てそのままエクアドル、コロンビアと北上するつもりだった僕はそのお誘いに喜んで乗ることにした。ペルーのリマまでバスで行き、エクアドルのグアヤキルにさらにバスで移動し、そこからガラパゴス諸島のサンタクルス島へ飛んだ。気づけばもう7月にはいっていた。
僕が先について、後日ユキちゃん達はやってきた。「もうここしか無い。ここで言おう。」ようやく告白する気になり、深夜になって外にユキちゃんを呼び出した。それが今夜だったのである。
「すごいよ、見て。ペリカンが普通にいるなんて考えられないよね。」「ホントやね、すごい。」
宿から少し歩いて港にやってきた。野良ペリカンが海を眺めてボーっとしている。今いるここサンタクルス島は野生のアシカやイグアナがそこら辺をウロウロしている奇特な島だ。かの有名な、岩のように大きいガラパゴスゾウガメは流石に動物園のようなところで保護されていたが、貴重な生態系の一端を担っているはずのアシカやペリカンは野放しなのだ。昼間魚屋のおばさんが、売り物を狙うアシカを足でシッシッと追い払っているのを見た。ここで生活する人にとってはアシカはドラ猫と変わらない。これが日常なのだ。
「ユキちゃん、あのさ…気がついてると思うんだけど…てかこんなとこ呼び出してる時点でわかるよね」
「うん…そやね…」
「1000人目にカットした人と結婚したいとか言ってたのはアレは冗談だったんだけどさ。けどホントに自分の中で大切に思う人の髪を切って終わりにしたいと思って。それでユキちゃんに頼んだんだ。」
「それで、前から言おうと思ってたんだけど。付き合ってもらえないかなって。」
しばらくの無言のあと、ユキちゃんが静かに話し始めた。
「実はね、ウチ好きな人がおんねん。だからごめん…。あとね、ウチら世界一周とかして旅してるし、会うのも難しいと思うし…。ごめん。」
薄々わかっていたとは言え、いざハッキリ言われるとなかなか来るものがあった。見てはいけないものを見てしまった時のような、体の中の血の気が引く感覚。どうしていいのかわからないが、どうにかできるほどの余裕もなかった。ドラマや漫画でフラレた時に笑顔で対応する人を見たことがあるが、あれ嘘だ。そんなことなどできるわけがない。
さらに、僕の中でひとつ誤算があった。まさか好きな人がいるなんて思ってもいなかった。お互い旅人だから無理でしょうというのは理解できる。ユキちゃんは姉妹で旅をしているし、少なくとも帰国するまでは姉妹が別行動をするなどあり得ないが、それなら帰国すればいいだけの話だ。聞いてる限り今後も長期間旅をするようなプランはなさそうだった。
しかし好きな人がいるとなると絶望的である。ユキちゃんがその人にフラレでもしない限り望みはないではないか。認めたくないその事実と「そいつはどこのどいつだよ!?」という言葉を飲み込み「そっか…。わかった。」と力なく答えるのが精一杯だった。
「けどね…」ユキちゃんはさらに話し始める。「たぶんウチも無理やねん。相手にされないと思う。」そこまで聞けばなんとなくわかった。十中八九どこかの街で出会った旅人か移住者である。例えば相手がまだ1年2年と旅するような人で帰国するタイミングが全く合わないか、その国に住んでいるなどの理由で住まない限り会えないか、そんなような人なのだろうと思った。なんだよ、お互い様じゃないか。
しかし、とにかくハッピーエンドにはならなかった。日本に帰るタイミングを失った。これからどうしようかと途方に暮れかけたが、正直すべてを丸々諦めなくてもいいような気もし始めてきた。その人が望みが薄いならチャンスはまだあるかもしれない。それに人は自分に好意がある他者の存在を知ると少なからず意識するようになってしまうという、そんな心理も僕は知っていた。愛せば愛されるというやつだ。
なんかもしかしたらこれはいろいろと時が解決してくれるかもしれない。薄っすらとそんな望みがあるような気がした。ユキちゃんは気まずそうにしていたが、そう思えばなんだか前向きになれるような気がして、フラレたくせに帰りの足取りは軽かった。そもそもこのポジティブさとテキトーな性格だったから、世界のストリートで様々な人のヘアカットするなんてことが出来たのだ…。
ガラパゴス諸島を後にし、その後ユキちゃん姉妹と一緒に旅をすることになり、向かった先はコロンビア、メキシコ、キューバ。それが【旅を終えるための】乱万丈な旅の幕開けだった。
これは2014年・2015年に世界を旅して1000人の髪を切った旅人美容師桑原淳のノンフィクションの物語。