第一章 生きてる実感④

第一章 生きてる実感④

 朝方警備員に起こされ目を覚ます。それもそうだろうと思いながら、謝ってすぐに寝袋を片付けて金山駅を出た。かと言って行く宛もなくとりあえず始発を待って電車に乗ることにした。思えば人生で初めて野宿というものを体験してみたため、春や夏と比較はできないが「冬にやるものではないな」とは思った。しかしホテルに泊まるお金など無いのだから仕方がない。

 今使用している青春18きっぷとは、始発から日付が変わるまでJR在来線がすべて乗り放題という僕のためにあるような切符だった。年間で使用できる期間は定められており、それ以外では使えないといういくらか制限があるシステムだ。11500円で5枚綴り。1日あたり2300円ということになる。前日に品川から滋賀まで行き、そこからまた名古屋に引き返してきたことを考えると5000円以上は浮いたことになるだろう。

 いくつかの使い方が考えられる。いくつかの場所に立ち寄る周遊型か、なるべく遠くへ行く長距離移動型か、もしくはある程度のところまで行って帰って来る往復型である。そのどれもが正しいような気がしたが、とにかく西を目指すことと、とにかく遠くへ行ってみることを優先的に考えていた僕は長距離移動を選択することにした。金山駅を出て、とにかく西へ西へと向かうことにした。

 僕はこれまで山梨と東京に住んだ以外は、家族旅行の北海道、修学旅行の沖縄、それから東京・山梨近郊の関東や中部エリアにしか行ったことがなかった。大阪と京都だけは専門学生の時に一人旅をしたことがあったが、西日本という場所はまるで未知の土地であった。

 いざ名古屋を出たはいいが、目指す場所は特にない。旅をしたいと思いはするものの、どこへ行きたいわけでもなかった。ただ東京を離れ、未だ知らない母国日本というものを見て感じてみたい、単純にそれだけを思っていた。ただ強いて言うならば子供の頃から歴史が好きだったため、なんらかの歴史が感じられる場所には行ってみたいと思うくらいであった。

 その後関西を経て姫路、岡山、広島と西へ進んでいった。山陽と呼ばれるエリアはとにかく長い。電車に乗れども全く着かない。長い兵庫県がようやく終わったと思ったら今度は長い岡山県に入る。鈍行列車に長時間乗り続けるというのは思いのほか過酷であった。何より全くやることがないのだ。「外の景色が綺麗だなぁ」なんて風情を感じてみても、5分も同じ風景を見せられれば誰だって飽きてしまう。

 ようやく広島に着いたのは東京を立って3日目の昼のことだった。それまで和歌山、神戸でも街頭に立ち、立ち止まってくれた人と握手をしてきた。その数は300を超えていた。広島駅前でも多くの人に握手をしてもらい、また急ぎ足で山口行きの電車に乗った。なぜそんなに行き急いでいたのかと言えは”時間の余裕はあれど、お金の余裕がない”ということだった。

 その日博多駅に着いた頃にはあたりはすっかり暗くなり、もう夜になっていた。青春18きっぷの使用時間はまだあったが、神戸から博多まで12時間も鈍行列車に乗ってきたものだからとてもではないが尻が限界だった。しかし東京からわずかに6900円で博多までこれたという事実には感動してしまった。

 その日はクリスマス・イブである。街はクリスマスムード一色かと思いきや博多駅は大規模な工事をしているし、思ったより賑わっている感じがしない。人はたしかにいるのだが、ただ帰宅するといった感じの人達ばかりであった。思わずその辺にいた人に声をかけた。

「あの、すいません。福岡に初めてきたのですが、人がたくさんいるところってどこですか?」

「はい?人?えーっとケゴかなぁ」

「ケゴですか。歩いていけますか?」

「遠いから電車かバスのほうがいいですよ。方角的にはあっちですけど、歩くと大変ですよ。」

「そうなんですね。ありがとうございます。そこに行ってみます。」

 ケゴがなんだかわからなかったが、握手をしてもらうためとにかくそこを目指した。青春18きっぷは残念ながら私鉄や地下鉄は対象外になるため、電車代を節約するため徒歩で向かう。博多駅前の大通りはなんだかとても静かで、あまり人も歩いていない。ビルが高く人がいそうな風景なのに静まり返っていて人がいない。どこか異世界に迷い込んだかのような不思議な感覚になった。

 20分も歩くと、きらびやかなストリートに出た。いろんな居酒屋やバーがひしめき合い、人々が楽しそうにしている。少し前まで僕もそっちにいたんだなと、ふとそんな事を感じた。今は寝床もままならないお金もない住所不定無職の浮浪者である。昨日は風呂にも入ってない。できることならぜひこんなところで飲みに行ってみたいものだが、泣く泣くそこを通り過ぎ引き続きケゴを目指すことにした。

 しばらくすると福岡【天神】という駅についた。このカッコで囲われた天神とはなんだろうか。福岡なのか天神なのか、天神なら天神にすればいいではないか。もしくは福岡天神駅では何か問題があったのか。こんな表記は見たこともない。それに天神という名前は感覚的に少し引っかかるものがあった。道中いろんな地名、駅名を見てきたが、天神ほどだいそれた名前というか、凄みがある名前は聞いたことがなかった。そこになにか九州随一の大都市である福岡の凄さのようなものを感じたのだ。

 天神駅は、博多駅より遥かに賑わっていて、年末らしい華やかさがそこにはあった。キラキラと輝く街も、人々もとても眩しかった。駅前では居酒屋の呼び込みが声を上げて通行人の足を止めようとしている。そこには年末商戦の最中ではあるが、クリスマスというイベントによりポカっと予約が空いてしまっているであろう事情が読み取れた。

「すいません、ケゴってどこですか?」

呼び込みをしている人に声をかけて聞いてみる。

「ああ、あそこですよ。あの公園。」

 そこは天神駅前にある光り輝く広場、いやよく見ると公園だった。警察の”警”に”固い”で警固と書いてある。これでケゴと読むらしい。クリスマス・イブということもあり多くのカップルらしき人たちも大勢目に付く。これはひょっとしたらとんでもなく場違いな所に来てしまったのではないか。聖なる夜に【日本列島握手の旅】などと書かれたTシャツを貼り付けた赤いバックパックを背負った不審な男が1人、カップルの聖地と言わんばかりの場所で立ちすくめている。

 名古屋でも、和歌山でも、神戸でも、広島でも開き直って【握手してください】と街頭に立ってみたが、流石に少し戸惑ってしまった。しばらく公園の周りを歩いてると、寒空の下ギターを弾いている人を見つけた。地べたに座り、アコースティックギターをかき鳴らし、唄を歌うその人は、なんだか僕と同種の人類のように思えてならなかった。

「どこから来たんですか?そんなにおっきいリュック背負って」

ギターを弾く手をとめ、僕に話しかけてきた。

「東京から来ました。福岡初めて来たんですけど、わけもわからずここに迷い込みました。」

「おお、そんな遠くからようこそ。今日はクリスマスですからね。賑わってますね。なんかリクエストあります?弾きますよ。」

「いいんですか。そしたらジュークの背景ロマンって歌を…マイナーかもしれませんが…」

学生時代にバンドを始めるきっかけになったジュークというバンドの中で好きな曲をリクエストした。知っている曲だったらしく、快く承諾してくれた。

 

” 唄を歌うように心は人を大切にするし
生きているこの瞬間が大切で最高なんだ
帰らぬこの日々が夢を描きます
ひまわりのように強くやさしく上を向く ”

 

 東京とも故郷山梨とも遠く離れた九州の地で、クリスマスソングでもなんでもないが、聞き慣れた好きな歌を聞けている。ここは同じ日本なのだと思った。とても当たり前のことを当たり前だと認識できた時、ホッとするということがわかった。旅をしているのだが、行く先では誰かが生きていて、誰かが歌ってる。宿もない、お腹も空いている、手足もすごく冷たいのだが、人の温もりに嬉しくなった。

 

 その後熊本、長崎、佐賀と巡ったが、思いのほか寒く雪まで降ってきた。てっきり九州は冬でも常夏の島のように暖かい場所だと思いこんでおり、勝手に期待を裏切られたような気分になった。そして、どうせ寒いならばと逆に北を目指すことにしたのだ。

 また来た道を引き返し、東北に向かった。福島、宮城、岩手、秋田と北上し、青森県弘前市に着いたのは正月も開けた2011年1月5日の事だった。弘前駅を降りると、外は吹雪いていた。急にそのような天候になったわけではなく、秋田あたりからずっと吹雪いており、各駅に着くたびに開くドアとそこから吹き込む冷気にいちいち嫌気が差していたこともあり、正直来たことを後悔していた。野宿が出来ていた名古屋がどれほどましだったか、寒い寒い言いながらも公園でブラブラ出来ていた福岡がどれほど暖かかったことか。東北地方をナメていた。

 しかし来たからには握手をしなければと思い弘前駅の外に出てみたが、吹雪の中で握手をするようなおかしな人がいるわけもないと察し、いかめし弁当だけ購入してまた電車に乗り込むことにした。せめて暖かそうな地域に戻ろうと調べてみるとどうも太平洋側が比較的温暖らしい。であればと、宮城県に向かうことにしたのだ。

 仙台駅前では女子高生がプレゼントを与えてくれた。「はい、これ。カッコつかないから」と黒板消しを買ってきてくれたのだ。黒板というのは、僕が首からぶら下げていたものである。握手をした人数をそこに書いていたのだが、チョークで書いてはティッシュで消すようなことを最初はしていた。しかしティッシュもすぐボロボロになるため、警固公園で貰った小さなサンタの帽子を黒板消し代わりにしていたのだ。つい1時間ほど前に握手をしてくれた2人の女子高生が「あれじゃ可哀想だよね」と僕を憐れみ100均に行ってくれたらしい。可愛らしい黒板消しがこの旅に加わった。

 仙台駅を出てすぐのところにある巨大な歩道橋付きロータリーに立ったのは正解だった。雪も降っておらず、そこまで寒くはない。通行人も多く、たくさんの人が立ち止まってくれた。

「どこから来たの?」
「寒いでしょ。これコーヒー」
「テレビかなんか?がんばってね」
「これでなんかうまいもんでも食べて」
「すごいね、がんばってね」

 2、3時間立っていただけで多くの人から声をかけてもらい、中にはコーヒーやお金をくれる方もいた。これは仙台に限らず広島でも福岡でも同じではあったが、仙台では一番長い時間立ち続けていたからか、多くの物を恵んでいただいた。

 仙台駅という場所柄、地元の人ばかりではなく東北各地から人が来ているようだった。岩手や福島から来たという人もいて、中にはmixiの友達になってくれた人もいた。

 この旅では小さなノートを持ち歩き、出会った人に一言書いてもらうということも合わせてやっていた。仙台を後にし、電車の中で改めてノートを読み返した時に、ものすごく多くのメッセージに胸が熱くなった。きっと一人ひとりはただ変な奴がいるな、面白そうだな、くらいのもので僕と握手をしてくれたのだろうが、僕からすればその人たちがいたからこそ旅が成立しているわけである。勝手にやっている旅だとしても、これは僕にとっては人生の大きなイベントなのだ。大きな感謝がそこにあった。

 流石に東北は寒すぎるということに気が付き、一路また西へと進み、今度は四国に向かった。買い足した青春18きっぷも使い果たし、いよいよ切羽詰まった僕はヒッチハイクで旅を続けることにした。意外とやってみればなんとかなるもので、いろんな人が車に乗せてくれた。トラックの運転手のお兄さんにはそのままトラックで寝かせてもらい、お礼に翌朝積荷を下ろすのを手伝ったりもした。

 広島県の尾道からしまなみ海道をわたり、今治をへて松山へ。松山の中心街である大街道には3日滞在し、多くの人に握手をしてもらった。その後は久万高原をぬけ高知市へ。帯屋町筋でついに1000人と握手をすることが出来た。その後も香川、関西と旅をし、最終的には1200人もの人と出会うことが出来たのだった。

 ほんの1ヶ月前まで美容師をしていた僕は、世の中のことも日本のこともほとんど何も知らなかった。どこにどんな街があるかも知らなければ、気候さえ理解できていなかったのだ。もっとお金があれば観光したり、美味しいものも食べることが出来ただろう。野宿して、スーパーの半額のお惣菜を食べ、ヒッチハイクをしてようやくなんとか約30都府県を巡ることが出来たが、世間知らずにとっては十分な時間であった。

 どこに行っても思ったことは【人は優しい】のだということ。西でも北でもそれは関係なく、寒そうにしてれば手を差し伸べホッカイロを与えてくれたり、おにぎりを与えてくれたりした。それも年輩の方だけではなく、若い人も、ヤンキーも、高校生も。行く先々で街角に立ち、立ち止まった人とひたすら握手をするだけの旅になんの意味があったかはわからない。夜は野宿か良くて漫画喫茶。風呂も2日に1回。

 意味はなかったかも知れない。だが、人生に迷い、生き方に迷いながら美容師という肩書や地位にがんじがらめにされ辛い毎日を過ごしていたあの頃とは遥かに違った毎日がそこにあった。働きもせず旅をすることや、施しを受けてもお返しができないような状態は、はたから見たら社会不適合の恥ずかしい人間に思うかも知れない。たしかにそうだと思う。しかし、そうでもしなければきっと【無条件の人の優しさ】に僕はずっと気がつけないまま生きていったと思う。